伊藤久三郎(1906-1977)
略歴
1906年 京都市下京区高辻通室町西に生まれる。
1908年 父死去。妹、久子誕生。 1909年 祖父死去 1912年 成徳尋常小学校入学
1918年 京都市立美術工芸学校予科入学。実習担当教員に徳田隣齋。
1920年 同校絵画科本科に入学。実習担当教員には柴原希祥、佐野一星、川村曼舟、川北霞峰、川本参江、西村五雲、都路華香らがいた。
1924年 京都市立絵画専門学校本科(現・京都市立芸術大学)に入学。実技実習担当教員に入江波光助教授、福田平八郎助教授、西山翠嶂教授、菊池契月教授らがいた。
1928年 同校卒業。卒業とともに東京府馬込村に単身移り、設立されたばかりの代々木の一九三〇年協会研究所に通う。ここで中山巍、里見勝蔵、林武らに師事。
1929年 研究所で知り合った新道繁、森芳雄、加藤陽、伊藤俊介と五月会を結成。第16回二科展に『ハムのある静物』が入選。
1930年 一九三〇年協会第5回展に『ミルク』『オカリナ』『パン其の他』を出品。淀橋区下落合の文化会館アパートに移る。このアパートにはのちに糸園和三郎も住む。第17回二科展に落選。
1931年 第18回二科展に『室内』『窓辺』『秋の静物』が入選。 1932年 第19回二科展に『青い蟹』『帽子其他』が入選。
1933年 井上覚造、萩島安二、高井貞二、鷹山宇一、昇須美子、山口長男、保岡とよ子、保岡勝、佐野繁次郎、佐伯米子、島崎鶏二らと「新油絵」を結成。新油絵第1回展(銀座・資生堂ギャラリー)。第20回二科展に『遅疑』『流れの部分』『廃屋』が入選、特待となり、翌年無鑑査となる。
1934年 新油絵第2回展。(第2回展には吉原治良が参加)第21回二科展に『皮膚』『水なき水槽』『櫛』を無鑑査出品。妹、久子死去。
1935年 第22回二科展に『花』『沼』を出品。 1936年 第23回二科展に『辿り行く徑』『テント』を出品。板橋区中新井町(現・練馬区豊玉北)に移る。近隣に新道繁、森芳雄のアトリエもあった。
1937年 新美術家協会会員になる。第9回新美術家協会展に出品。第24回二科展に『雨或いは感傷』『振子』を出品。 1938年 第10回新美術家協会展に『Toleration』『硝子の星』『撃気球』を出品。第25回二科展に不出品。九室会が結成され、同会会員となる。
1939年 第11回新美術家協会展に出品。第1回九室会展に出品。第26回二科展に『合歓の木』を出品し、推奨となり二科会会友となる。(第九室では同会会友として、山口長男、吉原治良、浪江勘次郎、峰岸義一がいた)九室会の事務所を引き受ける。
1940年 第12回新美術家協会展に出品。第2回九室会展に出品。紀元二千六百年記念奉祝美術展覧会に『村』を出品。第27回二科会に『燕』を出品。 1941年 第13回新美術家協会展に出品。第28回二科展に出品。九室会航空展示会(銀座・三越)。二科会普通会員になる。
1942年 第14回新美術家協会展に出品。第3回九室会展に出品。九室会展はこの回をもって終会。第29回二科展に出品。
1943年 第15回新美術家協会展に出品。決戦美術展に『少年航空兵』を出品。第30回二科展に『農村風景』を出品。伊藤久三郎油絵展(銀座・資生堂ギャラリー)に26点出品。
1944年 第16回新美術家協会展に出品。この回をもって新美術家協会展は終会。10月、二科会は幹部会を開き、解散を声明。故郷、京都に帰り以後この地に住む。この頃、軍需生産美術推進隊(隊長・鶴田吾郎、副隊長・向井潤吉)に入り、慰問画を制作。戦時特別文展に『境内』を出品。
1945年 終戦。 1946年 第1回行動美術春季展に『森』を協力出品。飯田清毅、田川寛一、三芳悌吉と共に行動美術協会会員になる。6月 伊谷賢蔵、飯田清毅らと共に、人文学園絵画部を設け、絵画を指導する(後の京都行動美術研究所)。第1回行動展に出品。この年より1957年まで毎年行動展に出品。
1948年 第4回京展(京都国立博物館)に出品。これ以降京展にも毎回出品。後に審査員となる。
1953年 京都市立日吉ヶ丘高(現・京都市立美術工芸学校)洋画科講師となる。
1956年 12月病により講師を退職。 1958年 胸部疾患により入院。以降1962年まで制作から遠ざかる。
1961年 退院。 1962年 母死去。成安女子短期大学(現・成安造形短期大学)講師となる。第17回行動展に『作品N621』を出品。この年より毎年出品を再開する。
1965年 成安女子短期大学教授となる。7月 手術のため入院。9月に退院する。 1966年 石田喜美子と結婚。 1968年 成安女子短期大学意匠科科長となる。
1972年 成安女子短期大学を定年により退官。同大学客員教授になる。
1976年 京都府美術工芸功労者に選定される。7月 脳腫瘍のため入院。手術。
1977年 4月8日 脳腫瘍のため死去。享年71歳。
1978年 伊藤久三郎遺作展(京都市美術館)
1995年 伊藤久三郎 ー透明なる叙情と幻想(O美術館)
2020年 伊藤久三郎展 夢の中でみた世界(京都文化博物館)
参考文献:『伊藤久三郎 ー透明なる叙情と幻想』(O美術館 1995)
いのは画廊にて購入。
伊藤久三郎のデッサンで、かなり薄い紙のスケッチブックに描かれています。
制作年代は1970年代の晩年の作と思われますが詳細は不明です。
抽象といいますか、謎のスライムみたいなものと、その手?のようなものが描かれています。これを基にした油彩作品があるのかもしれませんが、僕はまだ見ていません。
伊藤はよくシュールレアリスムの画家と形容されることがありますが、交流のあった森芳雄と糸園和三郎はそれを否定し、「あれはそんなんじゃなくて、キュウさんのポエジーだ」と口を揃えます。伊藤の画風から分類するに、特に戦前のものはシュールと言われても仕方ない作品だと思いますが、この画風は伊藤が自然と出していたものらしいです。
伊藤はあまり絵の話はしなかったといいます。制作過程も見せる人ではなく、それでいて特異な発想の作品を次々と発表し、若い頃から二科会で活躍します。2015年の展覧会『伝説の洋画家たち 二科100年展』においても伊藤のその画風は、同時代の画家たちの中で一人だけ見ている方向が違うかのようでした。
伊藤は自分の画風を確立したかのように思われても、すぐにそれを崩し、生涯新しいものへ挑戦し続けました。それは画集を見ていただければすぐにわかっていただけると思います。しかも、伊藤の求めた新しさは常に自分との対話の中にあり、流行やアートの文脈みたいなものの中にはなかったように思われます。こういったところが未だにコレクターの人気を集め、改めて回顧展まで開催された要因なのかもしれません。
伊藤の作品は市場にも時々出てきますので、皆様も是非探してみてください。僕もまだまだ探し続けます!