こんにちは!
本日もよろしくお願いします!
1、まずは白馬会からでも
物故洋画のことを知るにあたって、まずどこから手をつければいいかわからないし、専門書を読むだけでなく絵もたくさん見て覚えたいと思いますよね。そこで、今回からおすすめの図録も紹介していきたいと思います。一冊目はこちら。
『結成100年記念 白馬会 明治洋画の新風』(1996-1997)
こちらは1996年から1997年にかけてブリヂストン美術館、京都国立近代美術館、石橋美術館で行われた展覧会の図録です。とても人気だったのか比較的どこの古書店でも置いていて、しかも手頃な値段で売っているので手に入りやすいことから選ばせていただきました。
物故洋画(日本近代洋画と言ってもよい)を学ぶなら、前にも言った通り江戸後期の歴史から学んだ方が良いと思いますが、物故洋画を「コレクションしたい!」と思うなら、ひとまずは白馬会辺りから知っていってもよいでしょう。
というのも、江戸の洋画はいうまでもなく、明治初期から中期の洋画も市場にはほとんど数がなく、出てきてもよほどの資金力がない限り手が届きません。また、その人気と希少性から偽物も多く作られたらしく、迂闊に手を出すと痛い目に会います。
良いものはみなバブル期の美術館建設ラッシュで、古美術商が美術館に入れてしまったかコレクターが既に持っています。最近では明治時代末期の作品すらとんと見なくなりましたし、僕も9年間ネットと画廊をウロウロしていますが、そこまで古い絵は一点か二点しか持っていません。
確かに明治時代の絵は明らかにその後の絵とは違う質感を持っているのでとても魅力的なのですが、いろいろと入手ハードルが高い印象です。
しかし白馬会の、特に後期に出品していた画家の絵にはかなりの確率で出会うことができます!なのでまずはこちらでお気に入りを探しましょう。そうすれば自分がどんな絵が好みと思うかもわかってくるはずです。
2、白馬会の影響
白馬会は明治29年(1896年)、黒田清輝、久米桂一朗らを中心に明治美術会から半ば反発、独立する形で結成されました。最初の会員としては、黒田、久米、小代爲重、合田清、佐野昭、安藤仲太郎、山本芳翠、吉岡芳陵、中村勝治郎、堀江松華、今泉秀太郎、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、小林萬吾、佐久間文吾、長原孝太郎、岩村透、菊池鋳太郎、小倉惣次郎らがいました。
黒田清輝は薩摩藩士の息子で、当初法律を学ぶためにフランスに渡りましたが、そこでラファエル・コランに就て絵を学び、帰朝後、若手の指導的立場として活躍した画家です。
黒田が学んだラファエル・コラン(1850-1916)という画家はフランスの画家で空想的な主題に印象主義的な外光を用いた、優美な絵を好んで描いた画家でした。いわば古典主義、象徴主義、印象主義を折衷した独特な画風で、当時においてもあまり主流とは言えませんでした。しかし、黒田がそれを取り入れた画風を日本に持ち帰ると、これは新しいと広く受け入れられたのです。
当時日本には工部美術学校でアントニオ・フォンタネージ(1818-1882)に指導を受けた浅井忠、小山正太郎、松岡寿らの画家が明治美術会にいました。
フォンタネージはイタリア人で工部美術学校に雇われて来日した画家だったのですが、絵を教えるにあたり、かなり周到なカリキュラムを用意していたようです。以下引用です。
藤雅三の記録するところによれば、始業第一日目にフォンタネージは、画家の目的は「天然物・人造物を模写スルニアリ」と説き、そのためには「先ヅ其物ノ質、其法ノ本」を知らなければならない。すなわち、「其形ヲ知リ、其色ヲ知リ、又其光線ノ法ヲ知ツテ而後チ画甫メテ成ル。故ニ論理・実地ノ二科ナクシテ名家タルコト難シ」と語ったという。そのためには幾何学、遠近画法、解剖学の三科が必要だとも説いている。
(中略)
実技指導においては、フォンタネージ自身のデッサンの模写に始まり、石膏半身像の写生、石膏立像の写生(ただしこれはおそらく石版刷りの絵手本の模写という)へと進み、手足の細部の写生、油彩による人形の写生、コンテによる人体写生を経て、初めて戸外に出ての鉛筆による風景写生、その後にようやく油彩による風景写生という順序であったようだ。
『没後90年記念 浅井忠』展(京都新聞社 1998)「浅井忠の芸術」島田康寛 P13より
このような指導を受けた画家と黒田は次第に意見を異にしていき、やがて白馬会が結成されることになります。さらにマスコミによって黒田、浅井の対立構造は煽られ、黒田らは新派、浅井らは旧派と言われました。
この後、白馬会は東京美術学校に西洋画科を設立します。教授陣には黒田清輝、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、久米桂一郎、合田清が就任。結果、やがて展覧会は黒田らの教え子たちにより新派一色になっていきます。(この影響は後々まで続くことに……)
浅井はそれでも指導的立場として尊敬を集めていましたが1907年に死去。これにより黒田ら新派の影響力は益々ゆるぎないものになっていきました。
黒田は西洋画科設立にあたり、自身がフランスで指導を受けた方法をカリキュラムに組み込んだようです。このカリキュラムが果たしてフォンタネージのものより優れたものだったかはわかりません。しかし、先に本格的な西洋画の指導を受け、古典的な絵画を描こうとしていた浅井らを旧派、謎の流派を会得しフランスから帰ってきた黒田らを新派と名付けたのは、本当に正しかったのかはよく考える必要があります。
ですが実際、歴史的には白馬会の影響は多くの画家におよびます。そのことは物故洋画をコレクションしているとすぐに実感することと思います。
3、時代の情熱
白馬会について説明しようとするとついつい愚痴っぽくなってしまいます。(すいません……)
黒田清輝の功罪については諸説ありますので、皆様調べてみて下さい。
でも、そんな白馬会の画家たちの絵が嫌いかというと決してそんなことはなく、むしろ好きな絵はたくさんありますし、ずっと絵を探している画家もいます。
当時は急速な欧化政策の反動で、西洋画も排斥運動の只中にありました。そんな中、少数派の洋画家たちが曲がりなりにも東京美術学校というところで、社会的地位を得ていったことは「相当な努力があったんだろうな」と思わずにはいられません。図録からはその情熱を感じます。
時代が進んでいくと渡欧する画家も多くなり、次第に黒田らの影響だけでなく、みな独自の画風、あるいは違う主義を体得していきます。
白馬会自体も全13回の開催をもって、1911年に解散になりました。
今回紹介の図録の巻末には白馬会全13回の出品目録が多くの図版と共に載っています。この目録は大きくて見やすく、とても重宝します。僕がこの図録をおすすめする一番の理由がこの目録です。目録が本体といっても過言ではありません。
僕はこの出品目録に載っている名前を片っ端から検索、またヤフオクの検索欄に毎日打ち込み続けるということをしていました。面倒ですが、とても楽しくためになるので是非やってみてください。
長くなりましたが、今回はここまで。ありがとうございました!
ではでは、また~。
参考文献 『結成100年記念 白馬会 明治洋画の新風』(日本経済新聞社 1996) 『没後90年記念 浅井忠展』(京都新聞社 1998) 『美術五十年史』森口多里(鱒書房 1943)