物故洋画と展覧会

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1、展覧会という概念

今回は日本においての展覧会の盛衰について考えていきたいと思います。

「盛衰」と書いたのは、日本の展覧会はかつてとても盛り上がったが、今は見る影もなく衰退してしまったと思っているからです。これはあくまでも僕の考えであり、印象です。しかし、大きく間違ってはいないと思っています。

これについては良い面もあれば悪い面もあると思います。また、時代の要請としては正しい方向に向かっているとも言えます。でも、かつての展覧会が果たしていた役目、それに代わるものが出てきていないことも確かです。この辺りについて考えていきたいと思います。

まずそもそも「美術展覧会」という概念は明治時代に欧州から輸入された概念だということは、皆さんもなんとなく想像できると思います。(欧州における「美術展覧会」の成り立ちについては美術サイト『artscape』内の村田真氏の「美術の基礎問題 連載第14回 2、展覧会について」に詳しくかつ簡潔にまとめられていますので、是非そちらをお読みください) 日本人のパリへの留学組、特に黒田清輝は、美術展覧会と美術館の設立を当時、強く公に訴えています。年頭にはパリで実際に触れた「サロン・ドートンヌ」や「ルーブル美術館」のことがあったのでしょう。やがて黒田は国が開催する所謂「官展」に先立って、自らが先頭に立ち「白馬会」を開催します。これが日本の西洋画における美術展覧会の始まりと、ひとまず言っていいと思います。

上記において「西洋画における」と言ったのは、日本では白馬会以前にも「内国勧業博覧会」という博覧会が1877年(明治10年)に成立しており、その美術部において河鍋暁斎、橋本雅邦、川端玉章らの日本画や、高橋由一、ヴィンチェンツォ・ラグーザ、原田直次郎らの西洋画が展示されているからです。しかし、この内国勧業博覧会は主宰したのが内務省の大久保利通であることからわかる通り、「美術展覧会」というよりも「産業奨励会」としての性格が強く、その念頭にあったのは「万博」でした。

なので、未熟ながらも一応の制度としての「美術展覧会」を意識したもので西洋画に重きを置いた展覧会は、日本では「白馬会」が最初であると思われるのです。

2、官展

白馬会は1896年(明治29年)から1910年(明治43年)まで全13回にわたり、開催されました。その間にも黒田は国に対し「官展」と「美術館」の設置の必要性を訴え続けます。

そうしてまずは1896年、アーネスト・フェロノサ、岡倉天心らが中心となって設立し既に開校していた東京美術学校に、新たに「西洋画科・図案科」を設置、西洋画科の教授となります。

日本における国主宰の展覧会「文部省美術展覧会(文展)」が始まったのは、それから約10年後の1907年(明治40年)のことでした。ようやく念願叶った黒田は文展ができたので、白馬会の役目は終わったと判断し、白馬会を解散する旨を発表します。しかし、もはや貴重な発表の場として認識されていた白馬会の解散は画家仲間たちの反発にあい、結局は「光風会」として少しだけ姿を変えた上で存続することとなるのは、以前もブログで書いた通りです。

こうして日本における展覧会には国主宰の「官展(文展)」と、白馬会のような画家たちの団体が主催する「在野展」という大きな二つの流れが出来上がります。この二つの間で画家たちは互いに行き来し、反発、分裂を繰り返し、後に大小さまざまな団体と団体展が誕生することになります。

また、日本に西洋画の美術館ができるのはもう少し後になりますが、一応この時点で、教育機関である東京美術学校、発表と審査の場である文展、在野の団体展が揃い、国内で美術を学ぶ基盤ができたと言えると思います。本当はその他に美術に対する批評や、紹介をする作家、雑誌、同人誌なども登場し、それらがやがて画家と観客を育てるということも増えていくのですが、その話はまたの機会にしたいと思います。

3、現在まで続く団体展

明治40年に始まった文展は、大正8年に帝国美術院展覧会(帝展)と名前を変え、その後も文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)、社団法人日展(新日展)、社会法人日展(改組日展)と名前を変え、現在まで続いています。

また光風会からはやがて、フュウザン会、草土社、二科会、一九三〇年協会、独立美術協会、春陽会、国画制作協会、新制作派協会、示現会、白日会、未来派美術家協会、アクション、マヴォ、三科会などの多くの分派が生まれ、互いに競い合いました。現在ある多くの団体がこれらを本にしています。

しかし、一方で当時の美術団体の持っていた社会的な影響力は既に失われて久しいと言えるでしょう。

なぜそうなってしまったのか。ひと口に言える理由はないと思うのですが、強いて言うとすると分裂し過ぎたということが大きいかもしれません。また、当時は主義、主張で袂を分かったはずなのに、今となってはどれもさほど変わりがわかりません。

学校、展覧会、メディア、美術館、在野団体、ギャラリー、およそ美術にとって必要不可欠な要素が揃っている現代の日本ですが、それらが何か有機的に絡まりあってひとつの物語を紡ぐということは、もうこの先あり得ないのではないかとも思います。あらゆるところで観客の取り合いが過熱しており、美術の求心力は相対的に下がっていますし、その中で確かな仕事ができる作家を見つけ出し、批評をする目も少なくなっています。

組織やそこに属する者が権力を有し、特権的に振る舞うことは現代において減らしていかなければならない課題の一つとして扱われていますが、特に日本の美術界において、ここ数年問題になっています。明治に作られた立身出世の仕組みをそのまま引き継いでいる、そのことの弊害として表れている問題だと思いますが、これらを敏感に感じ取ったアーティストたちは、現在個々で活動していることが多い印象です。

もしくは、数人の仲間でコレクティブを組むことも流行していましたが、それも今少しずつ下火になっていると思います。個々で戦うこと。その意識の浸透が美術団体の役目が終わったことを僕に感じさせます。

物故画家も全員が全員、団体にべったりということではなかったのも事実です。結局は絵は一人で仕上げるもの。個々に考えることは必要です。しかし、複数人で集まった際、時に大きな爆発が起きることも歴史を振り返れば容易に理解できます。

団体の時代から個々の時代へ、そしてまたいつか新たな形で団体の時代が来るのかもしれません。

それまで僕は、ここで過去の団体について考えていきたいと思います。

ではでは、また~。

参考文献:『観衆の成立 美術展・美術雑誌・美術史』五十殿利治(東京大学出版会 2008) 『美術五十年史』森口多里(鱒書房 1943) 『結成100年記念 白馬会 明治洋画の新風』(日本経済新聞社 1996) 『光風会100回展記念 洋画家たちの青春 白馬会から光風会へ』(中日新聞社 2014)

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