物故洋画の楽しみ雑感 3.18.2022

こんにちは!今日は少しだけ感想といいますか、ここまでの雑感を記しておこうと思います。

2月からこのブログを書くにあたって、沢山の本や図録を再読、または新たに手にしてきました。正確を完全に期することはできていないかもしれませんが、あまり的外れなことを書くのは本意ではありませんので、短い文章たちではありますが努力してきたつもりです。

とは言っても、何が正解かは検討の余地はあります。実際、日本の西洋画需要、その後の日本のファインアートについての言論はまだ再検討の只中にある状況だと思っています。良く言えば、日本の近代洋画史の中にはまだまだ掘れば出てくる重要な作品や論点が眠っている、それほどの豊かな文化醸成があったということだと思います。悪く言えば、それが現代に至るまで各所に良くない影響を及ぼし、今や「当たり前」になっている事実があるのですが……

これもまた当たり前なのですが、100年前の日本人は僕らとほとんど同じ人間です。その思考法についても行動範囲についても、文化的背景についても大して変わりはありません。それは本を読んでいてもよくわかります(絵が描けないと悩み苦しむ姿も全く同じです)。なので、絵画の画面に現れるものは違っていても、そこに至るまでの論理はかなりしっかりと学んでいるし、それは現代の美術教育においても必ず通るところなのだと思います。

また、人間は同じでも環境にはだいぶ幅があるとは思います。お金持ちの家の画家もいれば、貧乏だった画家もいますし、戦前の豊かさの中に育った画家もいれば、戦後の苦しさの中に生きた画家もいる。

より多くの苦しみの中に生き、死んだ画家の作品を有難がる傾向が日本洋画にはあります。確かに素晴らしい作品も多いですが、それらを数珠つなぎにして歴史を紡いでしまうと、日本近代洋画史はかなりいびつなものになってしまうと感じています。そもそも歴史というものは人の意図によっていくらでも方向を決められる創作物になりがちです。僕は戦後も長生きし、幸せに日常を生きた日曜画家のようなものたち(例えば、広本季与丸など)も歴史の中に紡いでいかなければ、戦前、戦中、戦後を貫き、現代に至るまでの道は示せないのではないかと思います。最近うっすらとその道が見えてきた気がします。

現代において、絵画の存在感は薄れたようで、実はまだまだ根強い影響力を維持しています。それは毎日Twitterに投稿されている数々のイラストレーションに付く「いいね」の総数を見ても容易にわかることです。しかし、一方でそれらの発するメッセージの射程はそんなに長くないとも感じています。それが良いところなのだということもわかりますが、それはやはり情報の画一化の延長線上にある問題と酷似するとも感じます。

僕が物故洋画を目にする時、ずっと違和感を感じてきました。異物感と言ってもいいかもしれません。それが何なのかずっと考えてきましたが、それはきっと「手作り感」というか「人の手でじっくりと作られた個人的なもの」だから、家になかなか馴染まない、故の異物感なのだと思います。そういえば、そういうものが身の回りから消えたのはいつだったのかと思い出そうとしていますが、思い出せません。例えば、小説を読んでいる時にはそういった感慨が起きる場合があります。もちろん、その小説の成り立ちや内容にもよりますが、あれほど個人的でぴったりと寄り添って鑑賞に付き合わなければならない体験はなかなかありません。物故洋画にはその体験に近いものを感じます。

そんなものを家の壁に掛けて置いておくわけですから、違和感がないはずはありません。最近はそれにもすっかり慣れてしまい、ないと逆に何か物足りない気持ちにすらなりますが、改めて考えてみると、とても不思議なことです。

絵には少なからず、その作者の人生が詰まっています。人生を詰めずに絵を描けるのだとしたら、その人は真の天才だと思います。必ず、筆先から浸透してしまう経験や知識や思想や気分。そんなものを読み解き、妄想するのも楽しみのひとつだと思います。

雑感は今日はここまでにします。これからも、拙いながらもブログを綴っていきたいと思いますので、お暇な時にお付き合いください。よろしくお願いします。

ではでは、また~。

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