小島善太郎(1892-1984)
略歴
1892年 現在の東京都新宿区淀橋に生まれる。
1899年 新宿区淀橋小学校に入学。その後、父の酒乱が激しくなる。姉死去。
1903年 家庭の事情で学校に通えなくなり、11月に同校中途退学。担任教師は父を説得したが留年は叶わなかった。
1905年 浅草の醤油屋に住み込みで働き一家を支える。
1908年 谷中の墓地内で一人の画家を見い出し、その厳粛さに心打たれ、墓地内で水彩で風景を描きはじめる。画家の書生に雇って貰いたいと願い、雇先を探したが見つからず、断念する。
1909年 八百屋に勤め画家志望の願掛け大寒に裸参りし、水籠りする。
1910年 前侍従武官長陸軍大将中村覚に見い出され、同家の書生となる。7月、谷中の大平洋画会研究所に入所、中村不折に学ぶ。同教室には水木伸一、多々羅義雄らがいた。同月、妹すぎ(15歳)が刺殺される。9月、母みの(53歳)が病死。
1911年 研究所コンクールにてデッサン部門で主席を得る。初めて油彩画で『明治時代の娘』を描き完成させる。太平洋画会展に『斜陽』が初入選。先輩に、中原悌二郎、戸張孤雁、中村彝、大久保作次郎、堀進二。同輩には、川口軌外、保田龍門、阿以田治修、奥瀬英三らがいた。7月、父(57歳)が病死。
1912年 パリから帰朝した斎藤与里のすすめで、フュウザン会に同人として『晩秋』を出品。
1913年 『四ツ谷見附』と取り組み始める。以後二、三年の間に『四ツ谷見附』を十点以上描き、どうやら画家になれた気を持つ。
1914年 葵橋洋画研究所に転学。鈴木亜夫、中山巍、前田寛治、中野和高、鈴木千久馬らを知る。巽画会展、および国民美術協会展に『四ツ谷見附』を出品。石井柏亭を知る。
1915年 第9回文展に『一本松』を出品するも、落選。安井曽太郎の帰朝展をみて心を打たれ、以後師事する。『四ツ谷見附』の習作を続け、その中の一枚が安井の賞賛を受ける。
1918年 第5回二科展に『冬枯の壕(四ツ谷見附)』を出品し初入選。日本美術院展に『静物』を出品し初入選、同院に入所する。そこで小山敬三を知る。
1919年 日本美術院春季展に『女の半身像』『風景』を出品、入選。続いて秋季展に12点に作品を荷車に積んで出品するが全て落選する。
1921年 小島善太郎第1回画会が行われる。再び二科会への出品をはじめ『ダリア』『四ツ谷トンネル』などで入選する。
1922年 大正博覧会に『四ツ谷見附』を出品して受賞する。円鳥会会員となる。同会員には林武、野口弥太郎、児島善三郎らがいた。第9回二科展に『梅木』などを出品。野村證券社長の野村徳七の後援を得て渡欧する。パリのアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールにてシャルル=フランソワ=プロスペール・ゲランにつくが、すぐに辞める。この頃に里見勝蔵、中山巍、硲伊之助、宮坂勝、佐伯祐三、前田寛治、小泉清らと親交を深める。
1923年 サロン・ドートンヌ展に『パリ郊外』を出品し入選。ルーブル美術館にてチントレット作『スザンナ』を二年かけて模写する。第10回二科展に『エチュード裸婦』を出品。
1925年 帰国。歴史学者の竹岡勝也氏の媒酌のもとで土方恒子と結婚。第2回画会が開かれる。第12回二科展に『エスタークの風景』『巴里近郊』『ネラバレの風景』『マルセイユの近郊』を出品。
1926年 新宿紀伊国屋にて帰朝展を催す。木下孝則、里見勝蔵、佐伯祐三、前田寛治と共に一九三〇年協会を創立。第1回展を京橋の日米信託ビル内画廊で開催。主に滞欧作を出品。第3回画会が開かれる。第13回二科会にも出品。長女誕生。
1927年 第14回二科展にて『林中小春日』が二科賞を受賞する。次女誕生。
1928年 第15回二科展に出品した『初夏の緑』で会友に推挙される。日本美術学校教授となる。佐伯がパリで客死。パリ・アンデパンダン展出品の日本作家の作品選考委員の依頼を受ける。聖徳太子奉讃展に出品。
1929年 女子高等美術院講師になる。二科会友15名中、児島善三郎、鈴木亜夫、古賀春江と共に審査員となり、その年の審査に加わる。第4回画会が開かれる。長男誕生。
1930年 1月、第5回一九三〇年協会展を開催。二科会を脱会し、里見勝蔵、児島善三郎、林重義、林武、鈴木亜夫、鈴木保徳、川口軌外、中山巍、伊藤廉、清水登之、三岸好太郎、高畠達四郎、福沢一郎と共に独立美術協会を創立する。一九三〇年協会は消滅。
1931年 第1回独立美術協会展を東京府美術館で開催する(以降独立展へは亡くなるまで毎回出品を続ける)。大阪市の丸善楼上にて個展を開催。日野市百草の土地を所有する。
1932年 八王子市丹木町(旧南多摩郡加住村)に転居する。大阪画廊にて個展。第2回独立展に出品。
1933年 妙義山に滞在、四里の山道を通い続け写生する。第3回独立展に『秋の妙義山』などを出品。
1934年 明治・大正・昭和名作展委員の委嘱を受ける。東京府美術館評議員常議員を任命される。生き別れになっていた兄・萬吉と26年ぶりに再会する。第4回独立展に出品。
1935年 大阪、和歌山方面に滞在する。兄・萬吉が死去。第5回独立展に出品。
1936年 大阪朝日ビルにて個展。第5回画会が開かれる。 1937年 第7回独立展に出品。 1938年 明治学院講師となる。第8回独立展に出品。 1939年 大阪美交社ギャラリーにて個展。第9回独立展に出品。
1940年 紀元2600年奉祝美術展委員の委嘱を受ける。同展に『湖畔朝陽の富士』を出品。第10回独立展に出品。
1941年 八王子文化連盟を発足させる。松島、仙台方面に滞在し、仙台三越にて個展。第11回独立展に出品。 1942年 仙台三越で個展。第12回独立展に出品。
1943年 京城(ソウル)方面に滞在し、京城三越にて個展。第13回独立展に出品。
1944年 戦中は畑作をしたり、自作で藁葺の納屋を建てる。疎開の荷物二十数軒預かる。第14回独立展に出品。
1945年 この年は戦争のために独立展は開かれなかった。
1946年 第1回独立美術自由出品展が開かれる(翌年に第2回開催、それ以降は開かれず)。終戦後は『若き日の自画像』『巴里の微笑』『友情の花籠』の執筆にふけ、絵を描くことが少なくなる。
1948年 毎日新聞社主催「美術団体連合展」の委員として天皇陛下を案内する。
1949年 この頃より桃に惹かれ盛んに描き出す。郡山方面に滞在する。
1951年 青梅に滞在。八王子アポロ学院にて絵画指導を始める。
1952年 明星学苑理事となる。青梅美術協会の指導を始める。
1958年 たった一人残っていた弟・鍬吉も死去する。
1964年 八王子に善太郎を囲む会「愛善会」が生まれる。
1969年 自伝『若き日の自画像』を栗林社長の雪華社より出版する。
1970年 三越にて松田伊三雄社長の肝いりで自選展(画業65年)を開催する。
1971年 40年前に手に入れた日野市百草にアトリエを新築、転居する。
1976年 夏になると志賀高原に滞在。北斎研究家の西山新平氏を知り、白根山と取り組むきっかけとなる。金婚式を行う。
1979年 第47回独立展に『夏山・白根山上の焼山』などを出品。
1981年 『巴里の微笑』『友情の花籠』が雪華社より出版される。
1984年 8月14日に心不全により死去。享年91歳。10月1日に青梅市立美術館および併設小島善太郎美術館が完成、開館する。
2022年 「生誕130年 小島善太郎展」青梅市立美術館
参考文献:『小島善太郎美術館 建設記念展 純粋の消えない不思議な精神 その作家画業70余年』(ギャラリーミキモト 1981)『青梅市立美術館・青梅市立小島善太郎美術館開館記念展』(青梅市立美術館 1984)※年譜は小島惇、敦子編のものを参考にしています。『若き日の自画像』小島善太郎(雪華社 1978) 『巴里の微笑』小島善太郎(雪華社 1981)
ヤフーオークションにて購入。(つい先日購入いたしました。)
小島善太郎の油彩画で奈良の山を描いたものです。板に描かれており、日が沈む前の一瞬、雲の影が掛かった山景を実にうまく捉えています。
制作年は1929年で、パリから帰ってきた小島のとても良い時期の作と思います。小品ながら小ささを感じさせない作品で、これほどの佳作がヤフオクに出てくるとは驚きです。
そもそも小島は自分の絵を全く売りたがらなかったと言います。なので晩年に美術館にまとめて寄贈するまで、ずっと自分の代表作に囲まれて暮らしていました。これは画家にとっては幸せなことかもしれませんが、次女の敦子さんは生活が苦しくて困ったとおっしゃっていました。「絵を売ってくれれば、うちはもっと楽に暮らせたのにねぇ」としみじみ語っていた敦子さんの姿が忘れられません。
そういうわけなので、小島の作品はあまり市場に出てこないのです。
ところが、ここひと月ほど、小島の作品が毎週のように出品されてきました。計10点ほどはあったと思います。こんなことはここ9年ほどなかったことなので、どうしたのかと思っていましたが、回顧展開催効果でした。こういうタイミングで、「今なら高く売れるかも」と考えて手放す人や、業者が出てくるのはお約束で「何か最近よくみるなぁ」という違和感を感じたら、絶対に何か理由があるので調べてみて下さい。
僕も小島の回顧展のことは知らなかったので迂闊でした。しかし、僕の欲しいような画風の作品はなかったので、ここは我慢と見て見ぬふりをしていました。
ところが、この作品だけがなぜか売れ残って宙に浮いていたのです。
値段は18000円と安くはないですが、小島のこの時期のこの出来の作品が18000円で売れ残っているのは、いくらなんでも失礼というもの。古書を断捨離して資金を捻出し、購入した次第です。
この値段を安いとみるか、高いとみるかはそれぞれの経済事情と価値観によると思いますが、今の物故洋画の相場はおよそこんな感じになっています。ヤフオクも入札が1万円を超えると鈍り出し、2万円を超えても食い下がってくる人は一握りという状況です。
日本の今の経済状況を如実に反映しているのか、それとも物故洋画家の芸術的価値の評価は今やこんなものなのか、またはその両方か。とにかく、僕が感じているのはもっと多くの人が美術に関心を持ち、絵を見てくれれば違う評価や価値が出てくるのではないかということです。
そのためにも僕はこれからも勝手に面白がり、勝手に価値を見出して、資料を添えた文章を書いていきたい。そう思っております。
皆様に少しでも面白がっていただけたら幸いです。