木内廣(1920-1989)
略歴
1920年 栃木県上都賀郡に生まれる。
幼児期に父と死別。伯父の後見により上京、進学。中学後期に同人誌に書いた小文が不穏文書取締に抵触。家を出て太平洋美術学校に入学する。
1940年 太平洋美術学校卒業。応召。以後五年ほど中国大陸で転戦する。
1946年 復員。画業を再開する。
1948年 国画会展に『うさぎ』他一点を出品。初入選。国画賞受賞。
1949年 秋、第1回木内廣個展(フォルム画廊)
1951年 国画会会員。
1953年 8月、「木内廣、西田勝、小貫政之助、木内岬、四人展」(サヱグサ画廊)
1974年 『アトリエ No.568 絵画の発想から完成まで』に執筆。
1977年 『自然を描くー風景と生きものたち』(造型社)を出版。
1978年 『ある絵の周辺』(造型社)を出版。
1989年 6月17日 死去。享年69歳。
参考文献:『20世紀 物故洋画家事典』(油井一人・岩瀬行雄編 美術年鑑社 1996)『日本美術年鑑』平成2年版(245頁) 『ある絵の周辺』木内廣(造型社 1978)
ヤフーオークションにて購入。
木内廣の油彩画で志賀高原の風景を描いたものです。額も当時のものなのかとても絵に合っています。
木内廣についての略歴はもっと詳しく書きたいのですが、なかなか資料が見つかりません。見つけ次第追記したいと思います。
僕は木内の絵を他にも何点か持っていたのですが(木内の作品はだいたい作者不詳で出ています…)、最初に手に入れたこの絵より良いものがなかったので、なんだかんだで全て手放してしまいました。作品は保管する場所を確保するのも大変で、個人コレクターでは持て余してしまう場合があります。そういった場合は思い切って次の方へバトンを渡してしまうのが良いと思います。自分の手に収まる範囲での収集がおすすめです。
木内はフォルム画廊での福島繁太郎との会話を以下のように回想しています。
画肌いちめんに、絵具の残りかすがしみついたみたいなその頃の私の画。ぬめっとしたキレイな画肌がつくれない私。福島繁太郎氏は言った。
「汚いネ。風呂にはいっていないみたいだ」以来、福島さんから、私は国展のキタナ派(汚な派)三羽がらす(H氏・M氏・私)のレッテルを貼られることになるのである。
『ある絵の周辺』木内廣(造型社 1978)p.62
それを気にしてかどうかはわからないですが、後年の木内のモチーフはどんどん綺麗でカラフルなものになっていきます。画肌は相変わらずぬめっとはしていないのですが、まるで別人の絵のようになっていくのですから不思議です。
しかし、僕個人的にはこの頃の「キタナ派」と呼ばれていた頃の絵の方が断然好きです。
コレクターの方もそう思っているのか、それとも売れなかったからなのか、この時期の絵はこれの他には未だに出会えていません。
画家の絵への向上心と絵の好み、それと後々の評価、それがちぐはぐになってしまうことが物故洋画には多々あります。
申し訳ないと物故画家に思いつつも、やはりこの頃の絵を今でも探してしまいます。