小林真二(1890-1965)
略歴
1890年 群馬県大間々町に生まれる。生家は江戸時代から続く老舗「伊勢武商店」。漢方薬や雑貨類、足尾銅山用の火薬などを扱っていた。前橋中学(現・前橋高校)を卒業後、白馬会洋画研究所にて学び、長原孝太郎に師事した。
1907年 第11回白馬会に『大久保の初夏』を出品。
1909年 第12回白馬会に『午後の日』を出品。第3回文展に初入選。
1910年 第13回白馬会に『朝』『淋しき村』『静かな流』を出品。
1912年 第1回光風会展に『たそがれ』『朝』を出品。今村奨励賞を受賞。
1923年 関東大震災により本郷の家を失い、浦和に移住。
1924年 渡欧。サロン・ドートンヌなどに出品。
1929年 光風会会員。1935年 第一美術協会を創立。
1936年 文展無鑑査。1941年 群馬美術協会の設立に参加。
1947年 目黒洋画研究所を開設。戦後は光風会展に出品、審査員も務める。また、実践女子大学講師、埼玉県展運営委員・審査員なども務めた。
1965年 4月4日死去。享年75歳。
2020年 「生誕130年記念 小林真二 赤城山を愛した洋画家展」(みどり市大間々博物館 コノドント館)
参考文献:『20世紀物故洋画家事典』(油井一人・岩瀬行雄編 美術年鑑社 1996) 『結成100年記念 白馬会 明治洋画の新風』(日本経済新聞社 1996) 『群馬の美術 1941-2009 ー群馬美術協会の結成から現代まで』(群馬県立近代美術館 2009) 「画家・小林真二生誕の地 立て看板」(大間々町 「三方良し」の会 2013) いのは画廊データベース
ヤフーオークションにて購入。この絵がネットオークションではじめて購入した作品。
小林真二の油彩画でイタリアのヴェニスの朝を描いた風景画です。
制作年は1928年とありますが、小林の渡欧は1927年までだったはずで年号が合いません。描いて帰国後にサインを入れたか、この絵自体がヴェニスを思い出しながら日本で制作されたのかは不明ですが、なんとなく滞欧中に描いたものの感じがします。
技法は空の感じがやはり白馬会で絵を学んだことが伺えます。しかし、それ以外のところは少しずつ自分なりの表現や、渡欧したことによって吸収したものを描き出そうとしている、そんな意欲が見える作品です。
小林は地元群馬県の赤城山周辺の風景画を好んで描いたことから「赤城絵かき」と呼ばれていたそうです。また、赤城の「猪谷旅館」で志賀直哉と出会って以来親しくなり、志賀の小説『焚火』の登場人物「画家S」のモデルにもなりました。おなじく、同小説に出てくる「Kさん」は、日本スキー界の草分けである猪谷六合雄で、猪谷旅館の長男です。この猪谷は小中学校時代に水彩画や油彩画を描いていたこともあってか、小林とも親交があったようです。
猪谷は自ら志賀夫妻のために山小屋を建てたり、ジャンプ台を作ったりととてもパワフルな方ですので、ご興味のある方は調べてみてください。ちなみに猪谷の息子の猪谷千春は幼いころからスキーの英才教育を叩き込まれ、1956年の冬季オリンピックの男子回転で銀メダルを獲得。日本人初の冬季オリンピックメダリストになっています。
このように人との縁も多い小林ですが、画集が発行された形跡が今のところ見つけられていません。きっとあるのでしょうが、今後も継続して探し続けたいと思います。
しかし、そんな中ネットを調べていると、2013年に小林の生家跡地に「小林真二 生誕の地」という立派な看板が設置されているのを知りました!
また、コレクターの方と協力して「生誕130年記念 小林真二 赤城山を愛した洋画家展」(みどり市大間々博物館 コノドント館 2020)も開催されていました!
コロナで地元に帰れない間にそんなことになっていたとは……看板も展覧会も物故洋画にとっては、本当に貴重で素晴らしい取り組みです!ありがとうございます。
これは新たに図録が作られる日も近いかもしれません。その時に何かお役に立てるようにしておかなければと、この絵を見て改めて思いました。