中山巍(1893-1978)
略歴
1893年 岡山市弓之町(現・天神町)に生まれる。父、中山寛は第8代岡山市長。
1900年 岡山県師範学校附属小学校に入学。3・4年生の頃に中堀愛作に啓発され、水彩画を描く。
1906年 岡山県立津山中学校に入学。同校にて寄宿生活。同級生には矢野峰人、片岡鉄兵、金田廉らがいた。
1907年 大下藤次郎の水彩夏期講習(奈良)に出席。
1908年 大下藤次郎の水彩夏期講習(鎌倉)に出席。厳しい寄宿生活と画作との対立に耐えられず、9月に関西中学校に転校する。
1911年 関西中学校を卒業し、上京。池袋に下宿する。葵橋洋画研究所に入所。黒田清輝に指導を受ける。しかし、まもなく脚気を患い、帰郷する。
1912年 春に再び上京し、研究所に通う。同学には鈴木千久馬、鈴木亜夫、長谷川潔らがいた。
1914年 東京美術学校洋画科に入学。同期には里見勝蔵、大内青坡、武井武雄、須永力、宮坂勝、頓野安彦らがいた。藤島武二に師事。この頃に、児島虎次郎を知る。
1917年 肋膜を病み、半年間休学。茅ケ崎の療養所(南光院)にて療養する。この時に坂口安吾の兄、健吉(新潟新聞記者)と知り合う。休学の結果、留年し、鈴木千久馬、中村研一らと同期になる。
1918年 8月、大島に渡り、取材。10月の第1回帝展に『樵夫』を出品。坂本繁二郎に激賞される。
1920年 東京美術学校を卒業。同校研究所(現・大学院)に進む。
1922年 研究所を卒業し、渡仏。渡仏後にベルギーへ旅行。前年に渡仏していた里見にヴラマンクを紹介され師事する。小島善太郎、宮坂勝、前田寛治、佐伯祐三、中野和高、林龍作、岩崎雅通ら、前後して渡仏してきた仲間とよく会合する。児島虎次郎とも会う。
1923年 4ヶ月間南仏に旅行し画作。パリ・ロルヌ街のアトリエに移り住む。この年に渡仏してきた佐伯、中野と盛んに会合。新しい美術家協会を作ることを話し合う。高畠達四郎、福沢一郎とも親交する。シャガールを知り教えを乞う。
1925年 第6回帝展に『婦人座像』を藤島武二のすすめでパリから出品する。
1926年 サロン・アンデパンダン展に風景画を出品し、好評を博す。この年に先に帰国した木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵らが一九三〇年協会を設立。
1927年 『老人像』『赤ジレ座婦』などを制作。
1928年 第15回二科展に滞欧作20点を特別陳列。福島繁太郎の紹介でアンドレ・サルモン、ズボロウスキーを知り、ズボロウスキーの画廊リュー・ド・セーヌで個展を開く。アンドレ・サルモンは激賞し、カタログの序文も書いた。その後イタリアに旅行し、6月に帰国。池袋に住む。第15回二科展で二科賞を受賞。この年に佐伯祐三がパリで死去。
1929年 一九三〇年協会第4回展に佐伯祐三の遺作と共に40点を出品。第16回二科展に『窓辺肖像』他3点を出品。一九三〇年協会会員になる。二科会会友になる。
1930年 一九三〇年協会展に『窓』他5点出品。 第2回聖徳太子奉賛展に出品。第17回二科展に出品。5月に一井茂子と結婚。大森馬込臼田坂に移住。11月、自宅にて独立美術協会発足の話し合いを重ねる。里見勝蔵、清水登之、児島善三郎、三岸好太郎、林武、林重義、川口軌外、小島善太郎、鈴木亜夫、鈴木保徳、伊藤簾、福沢一郎らと独立美術協会を創立。独立美術協会宣言、趣旨を発表。外山卯三郎編『中山巍画集』を出版。
1931年 第1回独立展に『笛吹き』『顔』を出品。現在の武蔵野市吉祥寺北町にアトリエを構える。池袋に新洋画研究所を起こし実技指導の中心となる。6月には田端にも独立美術研究所を開き、その中心になる。8月、独立美術協会夏期講習会(紀伊国屋書店講堂)を開き、講師となる。
1932年 第2回独立展に出品。岡山で個展を開き80点出品する。2月には長女が誕生。8月には夏期講習を開く。
1933年 第3回独立展に出品。
1934年 第4回独立展に出品。この頃、会員間の主張の違いで会が分裂状態になる。収拾に奔走し、坂崎坦の協力を得てなんとか収める。この頃より、吉祥寺の喫茶店「ナナン」において年3回から5回展覧会が開かれる。三岸好太郎が死去。
1935年 第5回独立展に出品。鳥取市で個展。7月に吉祥寺「ナナン」で特に武蔵野の産を選んだ雑草展覧会が織田一磨によって開かれる。
1936年 第6回独立展に出品。12月に吉祥寺在住の文化人が集まって「井ノ頭金曜会」が発起される。
1937年 第7回独立展に出品。在野5団体懇話会に参加。この頃満州に渡る。吉祥寺在住の日本画家、洋画家、彫刻家などが集まり「吉祥会」を創立。
1938年 第8回独立展に『王道楽土A(満州記念)』『王道楽土B(満州記念)』を出品。5月、武蔵野町第一国民学校理科室において吉祥会第1回展覧会を開催。
1939年 第9回独立展に『門(朝鮮記念)』『街の人々(朝鮮記念)』を出品。
1940年 第10回独立展に出品。紀元2600年奉祝美術展に出品。この頃、中国大陸に渡る。
1941年 第11回独立展に『遺跡』を出品。12月、藤田嗣治、伊原宇三郎、小磯良平らと共に従軍画家としてシンガポールへ渡る。
1942年 第12回独立展に『南方の女』『南方の子等』を出品。東南アジアで従軍を続ける。風土病で高熱を発しボルネオ陸軍病院に入院。その後、ジャワ、バリ島などを歴訪ののち帰国。
1943年 第13回独立展に『坐像(ジャワ』『女人群(バリー島)』を出品。
1944年 第14回独立展に『洗濯』『南方の人々』『南方の女』を出品。吉祥寺南町に移住。
1945年 終戦のため独立展は開かれず。
1946年 独立自由出品展に『婦人像』を出品。4月、坂崎坦の誘いで女子美術大学洋画科主任教授になる。
1947年 第15回独立展に出品。以後毎年独立展に出品し続ける。
1958年 8月、脳出血のため倒れる。このため左半身が不自由となり、療養生活に入る。この年のみ病のため独立展に不出品。女子美術大学洋画科主任教授を辞す。
1970年 紫綬褒章を受章。
1978年 5月19日 老衰のため死去。この年の独立展は追悼展を兼ねたが最後まで出品をし続け、描きかけの絵が絶筆となった。享年85歳。
1979年 「中山巍回顧展」(富士美術館) 「中山巍遺作展」(岡山県総合文化センター)
1990年 「中山巍展」(武蔵野市民文化会館)
参考文献:『中山巍展』(武蔵野市・武蔵野文化事業団 1990) 年譜は高倉達夫編のものを参考としています。
ヤフーオークションにて購入。
中山巍のデッサンで人物を描いたものです。
裏にもデッサンが描かれており、これと同じ構図の油彩画が図録に収録されています。
1968年当時、中山は75歳で、体を悪くしてから10年経過しています。それでも、まだ自分の画風を追求する姿勢が見える良いデッサンだと思っています。特に背景のグリーンの絵の具の垂らし方がうまいというか、きちんとコントロールされていて、性格が出ているなと思います。
さて、改めて略歴を見てみても、中山はなかなかの順風満帆な画家人生を送ったようです。そんな中山のパリ時代について小島善太郎は著書の中でこう記しています。
その頃の中山君は、シャガールやスゴンザックに造詣が深く、当時、彼はどちらかというと無口で、自分のことは余り語らなかった。性格的にはロマンチストであったが、シャガールなどの幻想的な詩人的情緒とは違って、生活の中から生まれた現実的なモチーフを題材にしていた。それにいたって温厚な人柄で、生計も豊かであったし、仲間から中山(ちゅうざん)天皇と呼ばれている。その部屋も大きく、すでにモデルを雇ったりしていた。そんなこともあって、彼の部屋には、自然と多くの人々が集まって来るのであった。
『巴里の微笑』小島善太郎(雪華社 1981)p.33より
持つべきものは金持ちの友達というわけですが、独立のあの輩たちに、果たして中山はたかられてなかったのでしょうか。ちょっと心配です。
冗談はさておき、中山はそれだけでなく、ちゃんと良い絵をたくさん残していて、実力もあったことが伺えます。詳しくは図録をお手に取ってもらいたいのですが、その創作意欲はたとえ左半身が不自由になろうとも、生涯変わることがありませんでした。
中山は独立美術協会の中心的な存在として活躍した画家ですが、現在の知名度はとても低くなってしまっています。なので価格も手が届かないほどでもないのに、内容が素晴らしい絵が出てくることがたまにあります。
皆様もそんな作品を見つけた際は是非購入を検討してみてください!
※中山のエピソードについては発見次第追記していきたいと思います。