こんにちは!
本日もよろしくお願いします!
1、こんなのを待っていた
今回紹介する図録はこちらです。
『光風会100回展記念 洋画家たちの青春ー白馬会から光風会へ』(中日新聞社 2014)
こちらは2014年に東京ステーションギャラリーで開催された展覧会の図録です。比較的最近のものなので手に入りやすいのはもちろんなのですが、今回は僕の思い出の展覧会なので選ばせていただきました。
当時、僕は色々な美術館に行き物故洋画を学んでいたのですが、ひとつ問題がありました。それは
「ちょっとマイナーな画家の絵はなかなか展示されていない!」
ということです。
美術館の展示スペースも限られていますから、まずは代表的な所蔵作品をというのはわかります。夏フェスで大ヒットしたシングルカット曲を連発するバンドと一緒で、それがその場に適したサービス精神というものです。しかしながら僕はひねくれた客なので、もっとマイナーなアルバムの曲を聴きたいのです。
本来ならば「だったらフェスじゃなくて、ツアーに行けよ」という話になるのですが、マイナーな画家の大回顧展なんてよほどのことがない限り開催されません。しかも開催されるとしても場所は画家の地元率が高い!幼い子供がいる主夫がおいそれと行けるはずもなく、図録が注文できればそれだけで御の字です。
そんな折、あれは確か家族で東京駅に出かけていた時です。帰りの電車の中でふと中吊り広告を見上げると(中吊り広告、少なくなりましたよね)そこに「耳野卯三郎」という文字が見えたのです。禁断症状から、ついに幻覚を見始めたのかと思いましたが、よく見ると辻永、山本森之助、南薫造、矢崎千代二、太田三郎、小寺健吉、岡野栄、内田巌、曾宮一念、伊勢正義などなど、見たいと思ってもなかなか見られない画家たちの名前がずらっと並んでいたのです。しかも、なんとついさっきまでいた東京駅で開催中の展覧会だと書いてあります。
翌週、僕を快く解放してくれた妻に感謝です。朝一番に行ってゆっくりと見ることができました。作品はほとんどの画家が一点ずつの出品でしたが、どれも白馬会や光風会の出品作で重要な絵だったのでとても見ごたえがありました。そして、帰りにしっかりとこの図録を買い家路に着きました。
その後、この図録の画家について調べ、気に入った画家の名前をヤフオクの検索欄に毎日打ちこみ続けるリストに加えました。おかげでこの7年間で何枚もの絵と出会うことができました。
2、白馬会解散と光風会結成
思い出話はここまでにして、少し光風会について触れたいと思います。
前々回のブログで白馬会が1911年に解散したと書きましたが、1912年にはその後進団体として光風会が結成されます。発起人は三宅克己、中澤弘光、杉浦非水、山本森之助、小林鐘吉、岡野栄、跡見泰らで、出品した画家たちはほとんどが東京美術学校の卒業生、つまりは黒田清輝、藤島武二、長原孝太郎、久米桂一郎らの教え子たちです。なので、ほとんど実態は白馬会です。
黒田が白馬会を解散したのは1907年に文部省美術展覧会(文展)ができたので、白馬会のような民間の団体の役目は終わったと判断したかららしいのですが、しかしこれは黒田の独断でもありました。これでは単に自由な発表の場がひとつ減っただけでなく、若手の画家が絵を売る場所がなくなって食えなくなってしまう。そう思った白馬会の会員たちが立ち上げたのが光風会でした。もちろん黒田にも相談し、白馬会の財産も一部貸与してもらい、藤島や岡田三郎助にも賛助出品してもらっているので、まぁやはり白馬会そのものと言っていいでしょうが、これは大事なことだったようです。
ただ、歴史的にみるとその後、そんな会の風潮に反発する形で「二科会」や「フュウザン会」が出来、そこから「一九三〇年協会」や「草土社」が現れることになるので、光風会の存在はとても重要だとも言えます。
作風も初期の頃こそまだ外光派の影響が見えますが、だんだんと影響は薄れ、それぞれの個性が出てくるので見ていて面白いです。
3、東京美術学校と展覧会
光風会のような教授陣が立ち上げに関わった展覧会にその卒業生たちが作品を出品するのはごく当然の流れだったはずです。ここで名を挙げ、次は文展などの国の展覧会に出す。そうやって実績を作ったら独立するもよし、学校に戻って教授職に就くもよしというわけです。
このように、日本において少数派としてずっと追いやられていた洋画家という職業に、一応の立身の道筋が形作られたのがちょうどこの頃なのではないかと僕は推測します。
だからこそ、ここから画家を目指す若者の数がぐっと増え始めるのです。そして池袋モンパルナスには若い画学生が集まるようになったりする。きっと広本季与丸もそんな若者の一人だったのでしょう。
これは良いことだった思います。なぜなら今の社会を見ていて、ちゃんと絵で食べていけるということはとても貴重なことだと感じるからです。
しかし、道筋が安定すればするほどそこが、だんだんと淀んでいくのもまた事実。それもその後の歴史が教えてくれている。そんな気がします。
僕は何十年も前に画家としての立身を目指し、たとえそれが叶っても叶わなくても生涯絵筆を置かなかった物故画家たちに、これからも敬意を持っていきたいと思います。
本日もありがとうございました!
ではでは、また~。