おすすめ古雑誌①『美術新論』

こんにちは!

本日もよろしくお願いします。

1、古雑誌というオーパーツ

今やインターネットで調べられないことはないというほど、世の中は情報で溢れかえっています。そのネットの中の風景ですら、googleのアルゴリズムやアップデートによって刻一刻と変化していき、新しい情報に埋もれ、一年前の景色すら思い出せないほどです。けれど、それらは消えたわけではなくて、ネットの底の方に堆積し、情報の総量は年々倍々式に増えていっています。故に、そのうちにこの世でネットで調べられないことはないという時代が本当にくるのかもしれません。

と、そんなふうに思っていた頃もありました。

僕は今、いや、数年前からネットというものの情報の偏り具合にうんざりしております。(というか、国の図書館のデータベースよ……早くすべての過去の資料を電子書籍化し、いつでもどこからでも閲覧できるようにしてください!!課金しろっていうならしますから!!)

当たり前のことですが、ネットの情報というのは基本的にはどこかの誰かがネットに書き込んでくれたものを僕たちが許された範囲で見ているに過ぎないんですよね。

なので、誰も書き込んでいないような、例えば物故洋画家についてのことなんかはネットの情報にあるはずがないんです。これはもうそうとしか言いようがありません。

だからこそ僕は書いています。誰もやらないんだったら、僕が書きますとも!そうしたら、遠い未来のコレクター達の役に立つかもしれないし、ひいては日本の文化継承の一助になるかもしれませんから。

熱く語ってしまいました。すいません……

本題に戻りますが、そんな状況の中で新しい情報を手に入れるには、逆説的に古い情報にアクセスすることが大切になってきている気がします。これは完全なる時代の逆行です。戦前、文士志望者や画家志望者たちがいち早く丸善に駆け込み、いかに良い輸入本をゲットできるかを競った時代かのごとく、僕は古書街で古雑誌を漁るのです。さしずめ、古雑誌は現代ではもう触れられることのない情報のオーパーツといったところかと思います。

2、同人誌の時代

今回取り上げる雑誌はこちら。

『美術新論』

『美術新論 帝展号 第二巻 第十一号』(美術新論社 1927) 『美術新論 帝展号 第四巻 第十一号』(美術新論社 1929)

『美術新論』は美術新論社という会社が発行していた雑誌で槐樹社の機関誌です。こちらは1926年から1933年まで発行が続いたようです。

いわば画家たちによる同人誌です。こういった試みは当時は普通で、『みずゑ』『白樺』『ホトトギス』などの例を挙げるまでもなく、むしろ同人活動こそが日本の文系の文化を作り上げたといっても過言ではありません。

そんな下地があるからこそ、1980年代くらいまでの日本には本当に多種多様の雑誌がありました。それがどんどん減っていき、今では見る影もありません。雑誌の文化的な役目はほとんど終わってしまったのでしょうか。

そういった込み入った話は専門の書籍もたくさん出ていますので任せるとして、僕たちはそんな過去の遺産を掘り返していきたいと思います。

この『美術新論』はあまり数が刷られていないのか、なかなか古書店でも見かけません。ただ、国立国会図書館には入っていますので、行けば閲覧できます。こういう時に都度課金でもいいから家のパソコンからログインして見られるようにしてほしいと思います。

内容は画家の寄稿と、展評、画家同士の品評会などで、特に出品作の図版は『アトリエ』の帝展号などよりもずっと多く載っていて、こちらの方がおすすめです。この図版でしか確認できていない画家などもいて、巻末の出品目録と合わせ、とても大事なデータとなっています。本当は帝展号などの季節の展覧会特集号は全て手元に持っておきたいのですが、なかなか見つからず、見つかったとしても結構高価なので集めきれていません。皆さまも見かけた際には是非手に取ってみてください。

3、そこまで言っていいんかい

この雑誌の一番のおすすめポイントは豊富な図版なのですが、次に面白いと思うのが、画家同士の品評会です。

例えば今手元にある『美術新論 帝展号 第二巻 第十一号』ではその年の帝展に出品された作品について前田寛治と里見勝蔵が一言ずつ感想を述べあっているのですが、これが結構手厳しいです。

紙面の関係上、簡潔にしか触れられないのでしょうが、一言「無難な作だ」「卑俗だと思ふ」「俗悪」「夢遊病者」などと切り捨てる作品も多々あって、おいおいという感じです(笑) そもそもこの二人にやらせたのが間違いだとは思うのですが、それにしてもそこまで言っていいのかという感じで、今これを雑誌でやったら訴えられるのでは、と思います。

これともうひと企画、槐樹社同人の大久保作次郎、田辺至、奥瀬英三、油谷達、牧野虎雄、金井文彦、金澤重治らも同じ作品について合評を行っているのですが、こちらも辛口です。しかし、これらを読み比べるとおおよその見解は一致していて、当時どんな作品が評価され、またどんな作品があまり評価を得られなかったのかがわかり、とても興味深いです。また、それらの評価が現在におけるその画家の絵の価格にまで直結している感があり、「こうやって決まっていったのか」とその根拠の一端を見せられ、考えさせられます。

こういった批評(?)は現在では鳴りを潜めていると思います。ちょっと人のことを悪く書けば「お前に何がわかるんだ」と総攻撃を食らうような状況です。僕もあまり人の悪口には感心はしませんが、それと作品についてあれこれ言うというのは、別の問題だとは思います。

なんでもかんでも悪く言うのも違いますが、なんでも褒めればいい、良い面を見つければいいというのもまた違う。SNS全盛の現在、よほどの覚悟がなければ批評というものが成り立たなそうだなとは思いつつも、次世代の批評の存在の皆無さにも憂いを感じています。情報が過多になっているからこそ、ばっさりと切っていき多様な価値観を創出していきたいものです。

古雑誌を漁ると、そんな感慨に耽ることができます。まぁ、それにしても里見などはSNSをやったら絶対に炎上しそうではありますけども、せめて「同人誌を作って言いたいことを言う」くらいの気概は忘れずに生きていきたいと思う今日この頃です。

ではでは、また~。

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